昭和42年05月09日 夜の御理解



 今日、私は午後から文化センタ―に倉敷の大原コレクションですかね、絵がきておりまして、またと見られない様な絵がきておるというので、一度見に行きたいと思っておりましたら、今日高橋さんが一緒に御供しましょうと言って、おかげ頂いて見に行ってまいりました。実に見事でしたね、もう私共は、絵を観る、観賞する目というのは持たんのですけど、私共わからん者でも、矢張りいいですね。
 いいというよりも力におされます、力がある、一点 一点にもう力のあるものには叶わんと思ったんですけども。中でも特に私。印象的だったのは。「信仰の悲しみ」という画題の絵で御座いました。何とかいう絵描きさんですけども、その人は精神病になりましてね、病院に入院し、退院直後の絵ですから、なんとはなしに本当に気が狂った人が描いた様な、肝心の力は大変な力ですけれど、なんか陰惨ですね、そんな感じを与える絵でした。しかしいい、とにかく実に力のある絵でした。
 唯その「信仰の悲しみ」という、どういう意味か分りません、是は描いた人の心を現すものですから、抽象的なものでしょうね、どちらに致しましても私それが、非常に印象に残りました、なにかその前から、離れられん様な気持ちで、見せて頂いておりましたら「信仰の悲しみ」というのは、どう言う様な事から出たのであろうかと、信仰しておって、言わば悲しみがあるという事なんですよね。
 果たして信仰とは悲しいもんだろうかと、ところが。矢張り悲しいものだと云う事ですね。是を頂きますなら、教祖の神様が段々おかげをお受けになられましてね、そして人が段々助かる様になり。自分のような無学の百姓が、どうして此の様な事が出来る様になったのであろうかと思うたら、嬉しいやら悲しいやら、信仰とは悲しいものなんです。私共ですら、それを感ずる事が御座います。私みたいな詰らん人間がですね。
 頭は悪いし、器量も良くないし、どこといって取り様のない様な私がです、こうして皆さんから親先生、親先生と言われてから、人に大事にされながらです、それで人も助かって行き、自分も助かって行く、本当に、お参りが途切れました時にね。じっと目をつぶっておると、泣くまいと思うても泣かなければおれん程に、悲しいものが込み上げて来ます、だから、そういう意味合いでですね、信仰の悲しみというのは、その物ずばりの表現だと思うのですね。
 本当に嬉しいやら悲しいやら、どこから湧いて来るか分からん涙が、流れて来る事が御座います。けれども私、今日その「信仰の悲しみ」というもの(絵)の中から感じたものは、そういうものではなかったですね、その絵の印象から申しましても、実に陰惨な、後から本を頂いて来ておりますからご覧なさい、原色写真でその絵が出ております。そしたら神様から「焦点のない信仰」と頂きました。
 「焦点のない信仰」というのは実に悲しいものだと云う事です、是は言わば苦しい、悲しいものなんです、焦点のないと云う事は、どういうものかというとですね、焦点を間違えた、信仰だという意味があると思うですね。例えばどうぞ病気を治して下さい、どうぞお金を儲けさせて下さい、さあ、おかげを頂く事もそれはお道の信心で云ならば、取次者の徳とか、又は金光大神の御徳によってです信心も出来んのに。
 それこそ天から降ったのか、地から湧いたのかと言う様な、おかげを頂くもんです。でもそういうおかげは何時も頂けるもんじゃない、だからそういうおかげを頂いたからというて。何時もそういうおかげを夢見る、そういう夢を見た所の信仰、是が悲しいものだという事なんです。与えられるやら、与えられないやら分からない、それでも人間の弱さだと。只すがってどうぞと。
 棚からぼた餅が、落ちて来る様な事を願いながら信仰する、信仰を持つなら矢張り、是は悲しい信仰ですね、そういう信仰の群れがもしあるとするなら、本当に悲しいと言わなければなりません。それを信仰だという人があるならば、それは間違っているんです。信仰とは偉大なものだと申します。その偉大なという、おかげを頂かなければ駄目だと思います、偉大ですからおかげも偉大になって来なければ困る、そこで私思わせて頂いたんですね。帰ってその絵を繰り返し繰り返し見せて頂きながら思うんです。
 本当に世の中には、どれ程この絵の題名じゃないですけれども、沢山の人が信仰をしておるんだけれども、こういう悲しい信仰を持っておる人が、どの位おるかわからないと云う事。人間の弱さを赤裸々に、ただ現すと云う事は、実に悲しい事なのだと私共が頂いておる信心は、そんなものじゃない、それこそ、力と云う事を申しましたが、力強い、何時でも、どんな場合でも安心しておれる。どの様な中にも喜びが湧く、そういう信心でなければ駄目なんです。
 叩かれれば痛いのです苦しい時には苦しいんですと、けれどもこの苦しいけれども有難いという、そこから湧いて来る様なそれが力だと思うんです。そういう信仰を偉大というそういう偉大な信仰を目指しての信仰でなければ私は、悪い意味での悲しき信仰という事になるのではないでしょうか。教祖の神様が実感として書き表わしてあるものの中に嬉しいやら悲しいやらと、仰った様な意味合いのでの悲しみなら素晴らしい。
 私共、どう言う所に焦点をおいたら、間違いのない信仰であろうかと、私はね、結局馬鹿と阿呆になる事の様で御座いますね、信仰とは馬鹿になる事、阿呆になる事なんだ、ここんとこに焦点をおくなら絶対間違いのない事なんです。馬鹿ほど偉大なものありません。利口者ほど苦しまなければなりません。反対のようでしょう、あの人は利口だと、利発だと、私信仰で言う所」の馬鹿と阿呆で道を開けと、いう御教えが御座いますが、その馬鹿と阿呆になると言う程、偉大な事ないと思うんです。
 なんにも気にならないんですもんね。の様な事でも、それを教祖は「和賀心」と仰っておられます。「和賀心」とは和らぎ賀ぶ心と、どうぞ今日の私の心の上に和らぎ賀ぶ心を与えて下さいと、と云う事はどうぞ今日も一日偉大な馬鹿にならせて下さいと云う事になるそこで私は思うんです、今日御神前に出ましてその事をですね、たった二時間余りではあったけれども、大原コレクションの絵を見せて頂いたと云う事は、私にこういう生きた御理解を与えて下さったと思うと。
 その事をお礼申させて頂いておったんです。そしたら又。私の心の中に焼き付いております所の「信仰の悲しみ」というその絵を頂くんですね、神願に、そして頂きます事はですね、この弓を射ているのです、所が自分のいい様に、こうやって唯、矢を放しているだけの様な状態なのです、いわゆる的が無いのです。あたしゃもう椛目に10何年参りよる、合楽の人達は毎日日参しよると言うてもです、唯お参りしよりますと、言うだけでではいけないと言う事、唯弓を引いてポンと放ちよるだけ。
  (途中きれ)